日本的霊性

次に、日本人の霊性論について見てみよう。ここでは、鈴木大拙「日本的霊性」岩波書店(1972)を参考にしながら、日本的霊性の考え方について説明しておきたい。


鈴木の主張によれば、


神と霊性は区別して使われるべきである。精神とは意志や注意力であり、心、魂、物質の中核にある言葉だが、これまで物質に対抗するものとして精神というものを対比させてきた。これに対し、霊性は精神と物質の両者を包み込んで1つであり、1つでありながらも2つでもあるもので、精神と物質の背後に開けてくる世界を言い表す言葉である。


霊性は宗教意識と言い換えることができる。しかし、日本人は宗教と聞くと迷信や信仰といったものを連想し、宗教に対して誤解を生じさせやすいため、あえて霊性という言葉を使用する。


宗教は霊性に目覚めることによってはじめて<わかる>ものである。宗教意識は霊性経験に基づいているためである。しかし、一般の宗教は制度化されたものであり、個人的な宗教経験を土台にして、その上に集団意識的工作を加えたものである。宗教(団体)にも霊性は発現しうるが、多くの場合単なる形式だけに堕落してしまう。


霊性は精神の奥に潜在しているはたらきであり、これが目覚めると精神の物質に対する二元性は解消し、精神はその本体の上において感覚し、思惟し、意志し、行為することができるようになる。


とまとめることができる。霊性そのものは人類に普遍的な意識経験であり、どの民族にも認められる魂の自覚といえる。しかし、その自覚のされ方や経験内容が時代、社会状況、文化、民族性によって異なるわけであり、日本には日本人の霊性経験が生じることになる。


鈴木の霊性論に対して、筆者は日本的霊性をこのようにとらえている。


日本人にとって、もっともコアな霊性経験とは「自然との一体感」、「精霊との意識交流」、「自然で素朴な生の営み」といった要素に見いだすことができる。それは、われわれが忘れてしまった<生の実感>を今に伝えてくれる貴重な<霊的財産>であると思う。


人間がまだ自然の一部だった頃に思いをはせてみよう。モノや食料も乏しく毎日自然の脅威に脅かされながらわれわれの祖先は細々と暮らしていた。


海の幸、山の幸、狩猟採集、漁労、焼畑農耕、そして水稲稲作によってもたらされた恵みは、まさに神々の魂が宿った恵みであり、それを口にしながらわれわれの祖先は海の神、山の神に感謝を捧げていた。


自然とはカミそのものであり、その自然の中で人間も生まれ、育ち、老い、病み、そして死んでいった。常に自然=カミとともある生活。カミをそばに自覚しながら暮らすこと。そして身近なモノにもカミは宿り、人間たちの作り出したモノにもカミの力は宿ると信じられた。そこには物質と精神、自然と人間といった対立はなく、すべてが<本体>とつながっているという感覚があったに違いない。こうした素朴で自然な感性こそが霊性の発現とはいえないだろうか。


さらに、日本列島に渡ってきた人々は自分たちの部族のカミを祀り、カミとの交信をする人々を中心に共同体が形成されていった。シャーマンが族長であり、共同体の運命を占う存在として重要な位置にあった。彼らは自然の精霊との意識交信を通じて、自然の意向=神意を知り、ときには天候調節など自然との折り合いをつけようと試みた。


シャーマニズムに見られるエクスタシー、踊り、音楽、祭は人間が自然=カミとの対話と交流を果たすために必要不可欠の生活の営みであった。自然と共に生きること、生活の中で<聖なるもの>を感じること、喜び、笑い、歌い、踊り、生を謳歌すること。これが<自然にできていた>のが古代人である。


自然に生きて、自然に死ぬ。死んだ者の魂は海や山に還っていき、祖霊化してカミとなり生者を守護する。そして、黄泉の国から再び生まれ変わり、女性の身体の中に新しい命の息吹を宿す。すべて物事は自然に繰り返す。こういう感覚を持っていた人々が果たして霊性に目覚めていなかったと言えるのだろうか。


原始の時代に生きていた人が現代人より劣っていると考えてしまうのは、現代人の傲慢といえるだろう。彼らはわれわれが想像する以上に高度な<霊性文化>をもっていたと私は考えている。


霊性は激しい修行や鍛錬によってのみ獲得できる超越経験ではない。もちろん、そういう宗教的な流れの中で生きていく人には、その人の発達課題や試練がある。でも、<悟り>や<霊的覚醒>というものは難行、苦行によって達成されるかというと、そうではない。瞑想や、エクササイズをしたら達成されるものとも限らない。


当たり前のことを当たり前にしている。自然に素直に率直に生きること。幼子が見せるような天真爛漫、純真無垢なライフスタイルを自然と確立していくことができれば、誰でも霊性を自覚することができる。


誰でも生まれてこの方一度は悟りを得ている。われわれはその瞬間をどこかに置き忘れてしまって、辛い、悲しい、苦しいと自分の人生を嘆くようになってしまっているのではないだろうか。


サイト管理人 龍翠

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